夕陽の匂い
前作
会社を辞めると時間ができる。
至極まともだが、意外な発見であった。
時間ができると、人は悩む。
時間は自分を写す鏡だ。
ない時には、自分の存在を省みることなどほとんどないが、ある時ふと、"自分"という存在に関して自問する。
極限までいくと、なぜ生きているのか。
という疑問まで辿り着く。
メンヘラという存在を否定し続けてきた自分にとって、ある意味屈辱で、
同時に、この感覚は全員が持っているものであることに気付いた時、一種のパラダイムシフトが起こったような感覚に陥る。
部屋は1DKの狭い部屋で、札幌駅のすぐ近く。
学生が多く、夜になるとうるさい。
また、夏は低温サウナと錯覚するほど作りは悪い。
しかし、なによりも良いものが一つだけある。
それは、夕陽だ。
部屋は西向きであり、大きな窓の左上から右下にかけてゆっくり降りてくる夕陽を眺めることができる。
前の会社にいた時は、平日は20:00以降まで仕事。
土日も会社へ行ったり、他店の調査などへ行き、自分を高めていった。
だからこそ、夕陽を部屋から見ることはほとんどなかった。
しかしいま、改めて秋の16:00ごろに降りてくる夕陽を見ていると、
とてつもなく、寂しくなる。
それは秋という季節の特徴なのか。
また、部屋で流れているofficial髭男dismのアポトーシスという曲が助長している可能性もあるが、
夕陽から、何か特別な『匂い』のようなものを感じる。
中学生の時、時間があればテニスコートに集まり、1日10時間以上やっていたソフトテニス。
本気でやるとボコボコに勝ってしまうため、どうやって自然に相手に点を取らせるかを常に考えながらやっていた、あの頃の自分は、今の自分よりも絶対上手だと思う。
その時の夕陽は帰りの合図。
夕日は口うるさい母親のように、うざったく、そして温かい存在であった。
大学に入り、勢いでよさこいソーランサークルに入部。
土日は朝9:00〜18:00まで練習を行なっていたあの時。
あれだけしんどい練習も、友人達に囲まれ、温かい人の存在を認識できる環境へ行くことは、しんどさを超える安心感があった。
夕方になれば練習も終盤。
その段階で完成しているものの精度を高めるため、何度も練習。1曲4分を2回も3回も行う。
ノリと勢いでなんとでもなることを発見した瞬間であった。
その時の夕陽は、汗と充実感の匂いがする。
就職活動の際には、札幌駅すぐのビルの5階に毎日いた。
就職活動というものに対して、誰よりも真剣に取り組み、自己分析をしていくにつれて、自分のちっぽけっさに嫌気と焦りが生じ、悩んでいた。
その時は読書と旅行にハマり、多くの経験と擬似体験を繰り返し、相手を認めてあげられるように器が大きくなった瞬間であった。
その時の夕陽は、今日が終わるぞ?大丈夫か?と煽ってくる存在であり、大丈夫だ!と背中を叩いてくれる上司のような存在であった。
そして今、デスク越しに眺める夕陽は、
無理せず頑張れよ!と優しく言ってくれる祖父母のような存在であり、
キュっとくる寂しさと懐かしい匂いがした。