いまの僕の全て
どーも、ネイマです。
いまさっき、とある本を読んで読書メーターの感想機能だけでは収まらなかったので、こっちで書きたいと思います。
木皿泉さんの『さざなみのよる』という作品です。
今年の本屋大賞ノミネート作でもあります。
本屋大賞ってなに?という方のために説明すると、
簡単に言えば、
本屋さんが『みんな!これ読んで!』って推している本のこと。
そのトップが本屋大賞!ということです。
ちなみに今年本屋大賞は、辻村深月さんの『かがみの孤城』です。
話が脱線しましたが、『さざなみのよる』の内容を軽く説明します。
小国ナスミという女性をめぐるお話です。
物語は第1〜14章までで編成された短編集のような作りになっていて、
物語の第1章では、ナスミは癌の患者であることから始まります。
彼女は誰にも迷惑をかけずに死ぬことを望みます。そして朝起きるたびに、『まだ死ねないのか』と言う気持ちになりますが、なぜか読者に死ぬというに対してネガティブな感覚を味わせない。
そして、結果的に彼女の様子が急転し亡くなってしまう。
姉の鷹子、妹の月美、父親の叔母の笑子、夫の日出男、日出男の再婚相手の利恵、ナスミの元同僚の加藤由香里と好江など、それ以外にも数多くの人が登場するが、この物語は亡くなったナスミと彼らの関わり合いの物語であります。
みなさんにもこの作品を読んでほしいので、これ以上は書かないです。
僕は、この作品を読み終わってすぐの感想は
『人はきっと、お互いの相手になっている』というものでした。
おそらくいまの自分というものを形成しているのは、多くの要因があり、それに関わった多くの人がいるからこそ自分という存在が出来上がっているものだと思います。
いまの母親と父親が亡くなっていて、祖父のもとで暮らしていればおそらくいまの自分とは違う自分であったと思います。
僕はこの感想を書いた後、もう一度、この本がなにを伝えたかったのか。ということを本気で考えてみました。
そして、20分くらい考えた後、僕なりに全て理解することが出来た。それと同時に涙が止まらなくなりました。
タイトルの『さざなみのよる』とは何かについて考えたところ、このような結論に至りました。
風をうけて広がっていく、さざなみのように。
自分という存在が周りの人に少なからず影響を与えている。
自分という存在が、なにかのきっかけでさざなみのように広がっていき、だれかの1部となり、自分とはだれかの1部が集まっている。ということに気づきました。
"僕はだれかの相手になっているのか"
"僕を必要としてくれる人はいるのか"
"僕が死んで泣いてくれる人はどれだけいるのだろうか"
"僕はいまどこにいるのだろうか"
就職活動をしていると自分と向き合いすぎて、自分の存在価値というものをものすごく意識します。
そして、僕自身、かなりビッグマウスで自信家でありますが、実は、そうやって自分自身をかなり追い込んでいます。
実際、ビッグマウスと言われる人のほとんどが僕と同じだと思います。
結果を出さなきゃ周りに非難されることを理解していながら、大きい口を叩いて、もう後戻りできない状態まで自分を追い込みます。
はっきり言って、恐ろしく怖いです。
だからこそ、ものすごい努力をします。
だけれど、自分自身と向き合っていくにつれて、僕の腹の下に思い空気の塊みたいなものがずっとありました。
そして、この本を読んだ。
僕は感情が爆発して、号泣した。、
おそらく、辛かったんだと思う。
こんだけ頑張ってきて、誰かに必要となる存在になれたのか?!あいつらより少なくともめっちゃめっちゃ努力して、お金も時間もかけて、いろんなことを吸収しようと努力したけど、おれはあいつらより必要となるされる存在になれたのか?!実際、おれはそんなに強い人間でもない!特別何かができる人間でもない!だけどおれは誰かに必要とされたい!!
自信過剰な僕とこんなに弱い僕。
どちらも僕であって、僕ではない。
自分とは一体なんなんだ?!
おれは今何をしたいんだ?!
おれは今どこにいるんだ?!
こんな精神状態の中、この本を読んだ。
するとこの本にこんなことを教えてもらった気がする。
『どんなあなたも誰かの1部となり、あなたは誰かの相手になる。いまのあなたを必要とする人もいれば、必要としない人もいる。それでいい。』
いつのまにか、僕もナスミをめぐる人の1部になっていた。