neichan’s blog

ネイマといいます。日本人です。

おじいちゃん。ありがとう。

 

 

 

どーも、ネイマです⚽️

 

 

12月後半になり、師走と言われるこの季節。

 

 

 

まさに師匠が走るほど忙しかったです。

 

 

 

12月23日、午前6時26分。

 

 

父方の祖父が亡くなりました。

 

 

御歳81歳でした。病名は骨髄炎でした。

 

 

 

 

 

ほんと、まさに一瞬でした。

 

 

 

 

 

1年間ほど入院していた祖父ですが、ほとんど様子も変わらず、いつも通り元気でした。

 

 

歩いて売店に行き、看護師さんと話し、12月半ばには苫小牧に帰る予定で札幌の病院にいました。

 

 

それが、18日の夜に容態が芳しくないとのことで、輸血をするため、ICUへ行くことになりました。

 

 

僕が札幌に着いたのは19日の昼。

 

 

 

まだ全然元気で、

 

 

『お〜りょうすけー!この前の結婚式以来だな〜!!』

 

 

『次はお前の結婚式だな〜』なんて言っていていました。

 

 

 

午後15時になって、ICUの担当医が来て我々家族にこのように伝えました。

 

 

 

もう、大久保さんは助かりません。

 

 

 

 

 

 

本人が痛い思いをしながら延命するのと、

 

 

 

なるべく意識を残した状態にして、皆さんに看取られながら最後を過ごすのとではどちらがよろしいですか?

 

 

 

 

あまりにも衝撃でした。

 

 

 

だって、祖父は普通に元気に話してるんですよ。

 

 

 

 

思い切って聞きました。

 

 

 

延命しないとすると、あと、どのくらいなんですか?

 

 

 

 

 

具体的なことを申し上げることはできません。

 

 

 

 

しかし、私の経験上として早くて2.3日。

 

長くて2週間ほどでしょう。

 

 

 

 

あまりにも残酷な決断です。

 

 

 

 

本人のためを思って延命しないか、しないとしても意識を完全に失った状態で心臓だけ動かしているような状態です。

 

 

 

親戚でもなかなか発言できない状態が続きました。

 

 

 

そして、

 

 

 

 

延命はやめよう。

 

 

 

 

父が言いました。

 

 

 

 

 

痛みが続くのはかわいそうだ。

 

 

治る見込みがあるならなんでもするが、治らないのであれば本人が楽な方を選ぼう。

 

 

 

 

父は本当に辛い決断だったと思います。

 

 

 

延命をしないということは、どんな症状がでても手を打たないということになります。

 

 

 

父としては見殺しにするようか感覚もあったでしょう。

 

 

しかし、父は息子としてではなく、一個人としての意見を述べたのです。

 

 

 

親族で話しあった結果、延命はしないことにしました。

 

 

 

 

それが19日。

 

 

 

そして

 

 

 

 

23日の夜中に連絡が入りました。、

 

 

 

 

祖父の容態が急変しました。

 

 

 

 

おそらくこれが最後です。

 

 

 

看護師さんの話では、9:00ごろがメドだと思う。

 

 

 

我々に連絡が入ったのが、5:00ごろ。

 

 

 

そして我々は各自準備をして、6:00過ぎに家を出ました。

 

 

 

 

病院までは約30分

 

 

 

 

朝ごはんをコンビニで買おうとしたそのとき、連絡が入りました。、

 

 

 

 

 

容態がかなり危ない状態になった。

早く来て!

 

 

 

 

それから一気に飛ばして、病院に着きました。

 

 

 

滑る道路を家族3人で走って、病棟へ向かいました。

 

 

 

 

そして9階の祖父のいる階に着きました。

 

 

 

 

父さん、早く行って!

 

 

 

無我夢中でそう言ったのを覚えています。

 

 

 

 

そして、病棟について発された一言が

 

 

 

 

 

 

にいちゃんごめん、間に合わなかった。

 

 

 

 

父の妹がその晩、看病してくれていました。

 

 

 

僕はそこで初めて悲しくて泣く父の姿を見ました、

 

 

 

 

ただなぜか、僕は冷静でした。

 

 

 

連絡を受けてからすぐ向かったら、最後には間に合ったのかもしれない。

 

 

9:00過ぎが予定だからと言って、甘くみていたのかもしれない。

 

 

 

よく震災などで津波で流された人の話などがやっているがまさにその通りなのかもしれない。

 

 

 

いつ何が起こるか本当に分からない。

 

 

今できる最善のことをしないと後悔することになる。

 

 

 

父は祖父の生前に親孝行をしていないことを悔やんでいました。

 

 

もっと自分にできることがあったんじゃないか。

 

 

 

僕が知っている限り、みんなそうやって言うんです。

 

 

だって、生きているのが当たり前だったから

 

 

特別何かをすることって少ないんですよ。

 

 

僕はこの時この曲が思い浮かびました。

 

おそすぎないうちに 歌詞

 


なくしてしまってから その大切さに気付いて
くやんだり かなしんだりしても おそすぎるよ
もしかしたら いちばん この世で大切なものは
ふだん あまりに 身近すぎて 
気にも 留めていないかも
今ある 全てのものは 当たり前なんかじゃなく
今ある 全てのものが 奇跡的にあるとしたら
きみは どうやって それを 守るだろう
おそすぎないうちに 間に合う今のうちに
できるかぎりのことをしよう
生まれてこられたお礼に
 
なくしてしまってから その温かさに気付いて
くやんだり かなしんだりしても おそすぎるよ
もしかしたら いちばん この世で大切な人は
当たり前と きめつけてて
いる と 疑わないかも
生きてる 全ての人は 何となくなんかじゃなく
生きてる 全ての人が ぎりぎり生きてるとしたら
きみは どうやって それを 愛すだろう
おそすぎないうちに 間に合う今のうちに
できるかぎりのことをしよう
生まれてこられたお礼に

 

 

 

 

それから葬儀の準備が進み、バタバタとこなしていきました。

 

 

祖父を苫小牧の実家に移し、父がその手を見て

 

 

やっぱり、職人の手だな〜

 

 

 

って言っていて、最近読んだ絵本がよぎりました

 

 

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今回の祖父の死を経て、僕が感じたことは、

 

 

死というものは、当事者と周りの人間で受け止め方が違う。ということです。

 

 

 

 

これは『モルヒネ』という作品の言葉なのですが、

 

 

本人は少しでも辛くないように死にたい。

 

親族は少しでも長くいきて欲しい。

 

 

 

このジレンマというものはいつになっても解消されないんだと思いました。

 

 

 

はっきり言って、僕は祖父の死を悲しくは思っていないです。

 

 

 

思っていないというより、思わないようにしています。

 

 

 

だって、3人の子供に恵まれ、多くの孫も見れて、80歳まで仕事して、最後は愛する娘の手の中で最後を終えたんですから。

 

 

 

もちろんその中で大きな苦労もあったと思います。

 

 

 

しかし、こうしてみれば幸せな人生だったと思います。

 

 

 

こんな言葉があります。

 

 

 

子供の最大の親孝行は、

 

 

親より後に死ぬことです。

 

 

 

 

だからこそ笑顔をで送り出しました。

 

 

 

 

じぃちゃんありがとう。

 

 

 

 

遼祐より。